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02 裸婦デッサンについて

クロッキー裸婦デッサンについて思いついたことをだらだら綴ってみようと思います。ただの裸婦デッサンに対する個人の思考の一サンプルになります。まず裸婦デッサンで性的な欲求が満たされるか…裸婦デッサンに性的な要素をどの程度感じるか考察してみたいと思います。以前、裸婦デッサンに参加したときの記憶をたぐりよせてみますと、基本的にデッサンしているときは性的にムラムラしたりというのはなかったです。服を脱いだ瞬間はおおっ!と思ったのですが、全裸の同じポーズを見ていますと慣れてしまうのでしょうね。シチュエーションもあると思います。これはデッサン教室なのだ、だから全裸の女性がいてもなんら不思議はない。裸が当然のシチュエーションの中での裸は衝撃度が低いと申しましょうか。これがコンビニに行ったら店員が裸だった…でしたらまた感じ方も違うと思います。また、全裸は美しいとは思うのですが、卑猥な感じは受けませんでした。これも上半身は厚着なのに下半身は裸…とかだったら、また変わっていたかもしれません。
次に性的な欲求をアートに昇華させることについて。何の根拠もない個人的な考えなのですが、性的に、もしくはそれに限らず抑圧された人間の方が充実したアートを創り得るのではないかと思います。性的な欲求を満たすのは性的な行為しかないと思います。それをアートにぶつけようとするのは、もう歪んだ行為だと思うんですね。その歪みや葛藤が禍々しいグルーヴを生みだし、時に強烈なアートを創りだすのではないかと思うんです。映画監督なんてロリコンが多いと思うんですよ。ロベール・ブレッソンなんてロリコンだと思うんです。で、それについて悩んだり葛藤したりして映画が生まれてるんじゃないかと思うんですよね。完全に僕の妄想ですけど。だから欲求を完全に満たしてしまうこととアートをつくることって相反する行為だという気がしてしまうんです。
あと性的なことをオープンにするのは苦手ですね。なんか隠したほうが、いやらしいしエロいと思うんです。単純に。あまりにオープンになったら、恥じらいもくそもなくなって味気くなるのではないでしょうか。だからモザイクは必要だと思うんです。インターネットの普及した時代では存在価値が危ぶまれているのかもしれませんが、それでもモザイクはエロスの砦だと思いますね。
なんだか「ホワイトハンズ・アートスクール」と全く関係のない妄想、独り言になってしまいました。デッサン教室は精一杯がんばろうと思います~。(画像は木炭とボールペンで描いたスケッチをデジカメで撮ってphotoshopで加工したもの。)

<追記>
「ホワイトハンズ・アートスクール」に参加させていただきましたので、簡単な感想を書こうと思います。とりあえずスタッフ、講師、参加者のみなさんいい感じでした。デッサン教室ってあまり参加者同士で話したりとかしないものなのかなぁと思っていたのですが、みなさん話しかけてくださって楽しくデッサンすることができました。正直、最初は得意の(?)気持ち悪い絵を描こうかと思っていたのですが、ある程度絵が描けるのを見込まれて無料招待していただけてるのだと、自分で勝手にプレッシャーをかけてしまい、かなり必死でやりました。隣には参加者の小さな女の子もいたのですが、大人気なく全力でデッサンに取り組み、見事「モデル賞」をいただきました。モデルの方が独断で選ぶ賞なのですが心底うれしかったです。なかなか裸婦デッサンする機会なんてないので本当に勉強になりました。講師の方にも色々アドバイスいただき、参加して良かったです。
次に性的な感想です。やってて気づいたのはデッサンに集中すると、裸婦を性的な対象としてみることができなくなるということでした。いやらしい目で見るのにも集中力がいるんですね。ただ視界に入るだけじゃだめなんです。精確にディティールを観察しながら、なおかついやらしいことを考えるというのは不可能なんです。
それでは、いやらしいことを全く考えなかったかというと、そうでもなく。まず、モデルが男性だったら参加してなかったので、その時点でいやらしい考えがあったと言えます。また講師の方も若い女性で、うれしくなかったと言えば嘘になるでしょう。またデッサンしてるときも乳首を描いているときは、「あっ乳首だ」と、意識してしまいました。乳首にはそれだけの力がありました。しかし乳首をずっと描いてるわけではないので、全体としては集中していたのでありましたー。…くだらない感想、失礼しました。